ケアハウスの相談員さんと廊下ですれ違ったとき、
珍しく彼女のほうから話しかけられました。

それは、前日、アタクシとヒコロさんの会話に
ついてのことでした。


その日、外出先から戻ると、エントランス横の
事務所の入り口にヒコロさんが立っているのが
目に入りました。

アタクシは一瞬、引き返してもう一度外へ出ようか
とも考えました。

最近のヒコロさんは、同じ話を何度も繰り返す
ようになり、とても面倒な存在になっていたから
です。

ところが、ヒコロさんはアタクシに気づき、
エレベーター前で待っていました。
そこで、彼女が話し始めた内容は…。

ヒコロさんのお隣のBlackさんが特別養護老人
ホームに移る際、お嬢さんが部屋の片付けに
来たそうです。

Blackさんの部屋の中にあるものは、私のもの
なのよ。

とヒコロさん、言い出しました

「はぁ?」と思いつつ、詳しく聞いてみると、
玄関の共用の戸棚に入れてあったヒコロさんの
草履や下駄などを、お嬢さんが持っていって
しまったとか。

それなら、相談員さんに言えばいいんじゃない
ですか?

と、アタクシはエレベーターから降りながら
提案しました。

ダメよっ、あの人(相談員さんのこと)は話を
聞いてくれない!

その後、私は自室に戻ろうとしましたが、
ヒコロさんに無理やり同行を求められました。

部屋に着くまでの間も、彼女はBlackさんの
お嬢さんの悪口を言い続けていました。

あの娘は欲深いのよ。私に挨拶もないし!

そして戸棚を開けて、

ほら、見てよ。何もないでしょ。

確かに戸棚は空でしたが、そのスペースは
Blackさんのものであり、アタクシが娘であったら
そこを片付けると思いました。

その時、ヒコロさんの顔を見て驚きました。
怒りで顔が真っ赤になり、目が吊り上がっていた
のです。

どこかで見た表情だと思いました。

そう、母が物がなくなった、盗まれたなどと
被害妄想に陥っていたときの表情と同じでした。

ここで関わるとロクなことがないと思い、
「電話を一本かけないといけないので、後で
ゆっくり聞きますね」と言って、その場を急いで
立ち去りました。

相談員さんの部屋はエレベーターの横にあり、
私たちの話が聞こえていたようです。

あんずさん、ヒコロさんは私の悪口を言ってた
でしょう?

実は、昨日ヒコロさんから相談を受けて、私、
怒ってしまったんです。

でも、職員としてしてはならないことをして
しまったと、落ち込んで昨日は泣きました。

と相談員さんが言いました。

話をよく聞くと、彼女が泣いた理由は、自分の
失態ではなく、認知症になる前のヒコロさんを
知っていたからだとわかりました。

1年前、アタクシが知ったヒコロさんはすでに
認知症を患っており、そのつもりで接していました。

しかし、相談員さんにとって、ヒコロさんは入所
当時、普通の明るいおばあちゃんだったのでしょう。

それが今では顔を真っ赤にし、目を吊り上げて、
盗まれたと叫び、何を言っても理解してくれない
ヒコロさんに、彼女は絶望感を持ってしまった
のだと思います。

認知症初期の頃の母は、妄想に駆られ、鬼のような
表情でアタクシに詰め寄りました。
「まるで悪魔だ」と感じたことを思い出しました。

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